導入:机上の空論を捨て、現場(リアル)へ
南阿蘇、331坪。築23年の平屋。価格800万円。
PCの画面でこの物件を見つけたとき、直感的に「これだ」と思った。これまで見てきた物件とは器が違う。「1日1組限定の焚き火ラウンジ宿」という事業を丸ごと受け止めるだけの余白が、そこにはあった。
覚悟は決めた。封印していた資金と融資枠を合わせ、総予算1600万円のフルベットで勝負する。
だが、机の前で画面を睨んでいても現実は1ミリも動かない。この大本命物件には、2つの巨大な懸念があった。 一つは、旅館業法に関わる「浄化槽の定員問題」。もし定員不足で入れ替え工事になれば、150万円が一瞬で消し飛ぶ。 もう一つは、建物の「リアルな状態」だ。写真の画角外に何が潜んでいるかは、現場に行かなければ絶対に分からない。
というわけで、車を出した。目的地は阿蘇。 机上の空論を終わらせるための現場確認である。
阿蘇保健所への突撃。150万円の壁は「ペラペラの紙」だった
旅館業をやる以上、浄化槽の定員問題は避けて通れない。 この物件についているのは「5人槽」。もし宿として使う場合、基準を満たさなければ入れ替えになる。新品交換なら150万円コースだ。事業計画の序盤で、この出費は致命傷になりかねない。
だから、ネットの噂や憶測ではなく、管轄の阿蘇保健所に直接乗り込んで現場の担当者に聞くことにした。 窓口に行き、物件の図面と事業の構想を説明する。頭の中ではいくつもの厳しい想定問答とロジックを準備し、ガチガチに理論武装していた。
だが、返ってきた答えは拍子抜けするほどシンプルだった。
「あぁ、既存の5人槽なら、宿泊定員5人までならそのまま使って問題ないですよ」
それだけだった。一瞬、耳を疑った。 あれほど警戒していた150万円の地雷が、担当者の淡々とした一言で消え去ったのだ。特別な交渉術などいらなかった。ただルールの確認をしただけ。
現実の行政手続きなんて、案外こんなドライなものだ。150万円の特大の壁は、ただのペラペラの紙だった。
ゲリラ外観視察。「最高の静寂」と「残酷な現実」
保健所でのあっけない勝利の足で、その大本命物件へ向かった。不動産屋の了解を得て、一人での外観だけのゲリラ視察だ。
車で山道を登っていくにつれ、周囲の空気が変わる。交通量は皆無。到着して車のエンジンを切った瞬間、まず思った。 静かだ。とにかく静かだ。聞こえるのは風の音と鳥の声だけ。周囲からの視線もフェンス一つで完全にコントロールできる。 隠れ家宿として、ロケーションは間違いなく100点満点だった。
だが、視線を建物に移した瞬間、残酷な現実が牙を剥いた。
軒天にはいくつかの水染みと、ベニヤ板による雑な仮止め。外壁のシーリングはボロボロに劣化し、玄関前の基礎には細かいひび割れが走っている。
築23年、手入れされずに放置された「生活のダメージ」がそこに刻み込まれていた。
環境は天国。建物は地獄。 このギャップこそが、中古物件のリアルだ。
「実家のコネ」も「DIY」も捨てる。真のプロデューサーへ
普通の素人なら、この悲惨な状態を見てこう考えるはずだ。 「自分でDIYして安く直そう」と。
だが、ぼくは逆の結論を出した。DIYは一切やらない。 この宿が狙うのは、1泊3〜4万円の高単価帯。非日常を求めて高い金を払う客にとって、素人の手作り感は一瞬で「チープなノイズ」になる。「雰囲気のある無骨な空間」と「素人が直した貧乏くさい家」は全く別物だ。だから、インフラや外装の修繕は完全にプロに任せる。
そしてもう一つ、捨てるものがある。実家のコネだ。 ぼくの実家は工務店をやっている。普通なら親に泣きついて安く直してもらうのが定石だろう。だが、それも使わない。
自分の事業は、自分の足で作りたい。自分の力で地元の業者を開拓し、相見積もりを取り、現場をディレクションする。その泥臭いプロセスをすっ飛ばして「親のおかげで安くできました」では、起業家として何も残らないからだ。
数百万円の修繕費は確かに痛い。しかし、それは「諦める理由」ではない。 むしろ逆だ。 屋根や外壁の劣化、基礎の補修。これらのダメージをすべて「正確な修繕費」という数字に変換する。そして、800万円という強気な価格を叩き落とすための『最強の指値(値下げ)カード』としてテーブルに叩きつけるのだ。
不動産は感情のゲームではない。冷徹な数字のゲームだ。
結び:いざ、内部への潜入へ
ここからやるべきことは決まっている。 まずは自分で地元の建設業者に連絡を取り、リアルな修繕相場を弾き出す。建物の絶望的なダメージを、交渉のための「武器」に加工するのだ。
その上で、不動産業者を引き連れて正式な内見へ挑む。 次はいよいよ、家の「内部」への潜入だ。外から見ただけでもあれだけボロボロなのだ。中はもっと悲惨な状態かもしれない。
だが、それでいい。 実家のコネも、DIYという逃げ道も捨てた。退路を断ったプロバイヤーとして、本当の攻防はここから始まる。

コメント